番組に寄せられた被災体験、ご意見・ご感想メールの紹介です。

1

私は20年 3月10日東京大空襲の 生き残りです。神戸、淡路 今回東北三陸町に行きました。
惨憺たる爪痕を眼前にして、私は自問自答します。亡くなる人生き残る人は、何処で分かれるのだろうかと。私は繰り返し考えても「運がよかっただけだ」と思えるのです。
強いて大空襲の猛火の中で自分の知恵が働いて生き残ったとしたら、それは茶飯事になった空襲から逃げ延びる道程を冷静に繰り返しシュミレーションしていたからだと思うことと、遊びの中で抜け道や路地の細道を知り尽くしていたこともよかったと思う。
大空襲は9日の深夜から始まった、焼夷弾の落下音を聞き着弾して火の手に追われるようにして私達は家を後にした、外は前後左右吹きまくる風と火の粉、おぶった妹の防空ずきんが発火する、濛々たる煙正面を向いて歩けない、非難を予定した学校ははや火の海、躊躇なく抜け道を行ってたどり着いた隣の学校の体育館で10日の朝を迎えた。
逃げる道々多くの人の群れとすれ違ったが体育館にたどり着いたのは私達だけだった、あながち「運」だけでもないようなきがするが、「運」がなかったにたどりつけなかったかも。
生き延びる最善の方法があったとしても、人間火中では慣れたことしか出来ないと思う。
高層ビルからの落下物(ガラス広告看板)等は水道は圧力を下げても止めないで欲しい。(戦後焼け跡の漏水廻りに人がバラックが建ち始めたから)。
80代 男性
「下町大空襲 炎に包まれた日」を出版して父やその家族が江東区大島に住んでいたため被災しました。父の同級生や近所の人の3月10日前後の体験をまとめた本「下町大空襲 炎に包まれた 日」を昨年、それを読んだ方の感想本を今年、自費出版しました。
国立国会図書館、戦災資料館等に寄贈し、江東区の全ての小中学校に配布されています。
父は当時5歳。記憶が残っているギリギリの世代で、その記憶を留めようと娘である私が自費出版制作を引き受けました。
出版途中、出版後すでに亡くなられた方も居て、まだ語りたい人がいれば本にしていこうとしています。
写真も載っていますが、ファイルでは本一冊は後れませんので表紙のみを送ります。
これからも体験の書籍化をやっていこうと思っています。
40代 女性(父親の体験記を出版)
日にちは昭和20年の5月○○日と聞いていますが、私は母と姉と3人で、小石川植物園の防空壕に避難していました。
夜、真っ赤な空に数多くのB29の飛行機が数本の探照灯に照らされ乍ら、皇居方面に飛んでおり、焼夷弾がぱらぱらと落とされ、油が雨のように落ちていました。
子どもに取ってそれは見事な夢のような光景でした。そのうち、目前の草原に数発落ち、一瞬の静寂ののちパッと燃えあがりました。
私は大急ぎで防空壕に戻り、「外が燃えている!」と連絡、大人たちは「ウソを言うな!」といいながら外を覗見やってビックリ、私は姉に引っ張られながら防空壕を飛び出して裏門から出て、防火用水の水を頭から浴びて、燃えている家の間を縫い乍ら明化小学校方面へ走り抜けました。
千石(駕町)の白山ー京華通りの交差点あたりで防火用水の陰に身を潜めて夜明けを待ちました。
周りは焼け野原になっていて崩れた木材が時々火の手を上げましたが、崩れるものは崩れて広々としていたのです。
そこに一機の戦闘機が登場! 私は「バンザイ!」と叫んで立ち上がり両手をあげたところ、姉が「伏せろ」と叫び、機銃掃射の弾が私の脇を通り抜けていきました。
その後、3人で植物園脇(白山側)の自宅に戻ったところ、父と兄が焼け焼け落ちた屋根の瓦と燻っている木材を片付けていて、家族5人がここで一同に会しました。
ここから記憶は飛んで8月15日の天皇の玉音放送当日になります。
70代 男性

1 | 2